田峯城に新たに甲冑が寄贈されました(´∀`*)

ピチピチーズ

2013年11月28日 23:23

2013年11月28日 田峯城に、新たに甲冑が寄贈されました。

3年程前、田峯菅沼氏の末裔である菅沼明雄さん(神奈川県在住)が田峯城に訪れた際に、
奥三河ふるさとガイドの今泉宗男さん(設楽町田峯在住)との出会いがきっかけです(。゚ω゚) /

田峯城主をはじめ、田峯に縁のある菅沼氏の末裔と、
田峯城の次席家老であった今泉道善の末裔(今泉宗男さん)の出会いなんです。


左から菅沼明雄さんの奥様、菅沼明雄さん、今泉宗男さん(田峯城・本殿にて)


菅沼氏(すがぬまし)の氏族は源氏であり、家紋は菅沼三つ目(元は丸に釘抜き紋を使用、
寛政系図には江戸初期に六ツ釘抜き等に変更とある)などがあるそうです。

菅沼氏の出自は諸説あるようですが、美濃守護職を務めた土岐氏の一族を称しているようです。
一説には土岐頼康の曾孫定直が三河国額田郡菅沼郷に移り住んで、菅沼定直と称したことから
始まるとされています。菅沼氏の一族は東三河を中心に広く分布し、島田菅沼氏のほか、
有力支族として野田菅沼氏、田峯菅沼氏、長篠菅沼氏などがありました。

特に野田菅沼氏の菅沼定則は、当初今川氏親に属して遠州攻略戦に協力したほか、松平清康の
宇利城攻略戦にも協力し、東三河の有力氏族としての地位を獲得していきました。
また、野田城を築いたのも定則でした。
その後、菅沼氏は三河へ進出してきた今川氏に従いますが、定則の孫定盈の代になり、独立を
果たした松平元康に他の支族とともに従いました。
その後、家康と武田信玄の戦いの中で菅沼一族の多くが武田方に寝返る中、定盈は野田城の戦いで
捕虜となるも、家康に忠節を尽くしたそうです。

その後、徳川家康の関東転封に従って、菅沼一族も関東に移住しましたが、この時、定盈のみが
上野国阿保藩を立藩しています。その後、江戸時代に入り、この定盈の系譜が大名となり、
阿保藩から伊勢国長島藩、近江国膳所藩、丹波国亀山藩に転じたものの、菅沼定昭の代に
無嗣改易となりました。しかし、定盈以来の功績により、定昭の弟定実に7000石を、同じく弟定賞に
3000石をそれぞれ新知され、旗本として家名の再興が許されました。
特に定実の系譜は交代寄合として、菅沼氏に所縁のある三河国額田郡新城に知行されています。
また、その他の一族も福井藩主となった結城秀康の家臣となった一族や、紀伊藩主となった、
徳川頼宣の家臣となった一族などがいるようです。


ところで寄贈されたこの甲冑、菅沼明雄さんの手作りなんです!

菅沼さんは、
『シロウトですから・・・』と謙遜されていましたが、
上段の間に置かれた甲冑の迫力は、中々のものです(゚д゚)(。_。)(゚д゚)(。_。)

それもそのはず。在住の神奈川県で『伊勢原手作り甲冑隊』として活躍しておられるようです。
詳しくはこちら伊勢原手作り甲冑隊公式サイトhttp://www.isehara-caccyu.com/gallery.html


『3年越しの願いが叶った(゚∀゚*) よかった、よかった(´∀`)』

と、菅沼ご夫妻もご満悦でした。



 菅沼明雄さん、ありがとうございました (*・ω・)ノ゜

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